会社と家の往復の毎日で疲弊しきった私

楽しかった記憶がありすぎて本来の趣旨から外れてしまっています。まだまだ書けそうな気もしますが、この辺で本来の趣旨に戻す投稿をします。時間が余ればHちゃんと旅行へ行った思い出を、また書きたいと思います。

前置きが長くなりましたが、本来の趣旨に戻りまして、今回の記事タイトルを
「会社と家の往復の毎日で疲弊しきった私」にして、「駐在員を僅か3ヶ月で退職」「転職してベトナム現地採用として働く生き方を選んだワケ」へと続きます。

過去の記事を読んで下さってくれている方は、ここからの数行は飛ばして下さい。私がベトナムへやって来たのは辞令が出たからです。日本では営業企画部主任として働いてましたが、辞令により課長を飛び越え生産管理部部長としてベトナムへの赴任が決まりました。工場の建設が遅れ、操業開始時期が3月にずれ込みました。

ここから私が駐在員を辞めるきっかけが含まれる本題となります。
操業時期が遅れ、始まったのは3月1週目のことでした。
それまでは平日は日本の手伝いか、立ち上げ準備。2月下旬には日本や中国、タイから続々と集まってきて社長と工場長を入れると10名以上の日本人スタッフとなり女性は私のみとなりました。10名以上の日本人スタッフのうち半分は応援メンバーなので任期は半年で日本や中国へ帰ることになるとのことでした。
みんな来たのはバラバラの日程だったので、私のように歓迎会はなく3月1週目の月曜日、操業を開始した夜に日本人スタッフ全員とHちゃんで決起集会のようなものをしました。
操業開始されてからの毎日は、文字通り会社(工場)と家(サービスアパートメント)の往復。朝5時30分に会社から用意されたドライバー付きのワゴン車が迎えに来てくれます。そこから10分と掛からないところに、私と工場長以外が住むサービスアパートメントへと向かい他の日本人スタッフをピックアップ。そこから工場へは1時間20分、渋滞にはまると2時間近くかかってしまうこともありました。
8時始業で休憩が合計1時間30分あるので終業は17時30分。ホーチミンへ帰る車は18時と18時30分に1台ずつ。(但し、18時に出発する車は定員がいっぱいにならないと出ない)
工場からホーチミンへ帰る時は必ず1回は渋滞にはまるので、どんなに早くても私が住むサービスアパートメントへ20時30分までに帰れたことは一度もありませんでした。仕事がある日の起床時間が4時30分だったので、家に帰ってから外出しようという気は起こりませんでした。しかし、日曜日など自由な時間がある時は積極的に日本人コミュニティによる飲み会(○○県人会や○○生まれの会など)へ積極的に参加してました。
このように、日曜日を除けば本当に会社と家との往復の毎日で、精神的にも疲れ果て、日本の友達に電話をしても日本の元部下に電話をしても愚痴ばかりでした。そして会社と家の往復の毎日が始まり2ヶ月が経った頃、『何でベトナムへ来たんだろう?』という自問自答を繰り返す毎日が始まりました。