転職してベトナム現地採用として働く生き方を選びました。

突然、会社を辞めて迷い込むように宿を取った場所はバックパッカー街と呼ばれるブイビエンやファングーラオというエリア。部屋の設備にこだわりを持たずドミトリーと呼ばれる大部屋であれば1泊500円を切るような部屋もあります。でも私は荷物もありセキュリティーを気にしていたので1泊1300円の個室を選択。(2週間契約をしたので1泊あたり1000円に割り引いてくれました。
)狭いながらもトイレとシャワーが付いており、想像以上に快適でした。
会社を辞めてからの最初の2日は何もせずボーッとして過ごしながら、これからどうするかを考えました。
この2日間で出た答えは「ベトナムへ来て何もしていないので何かを成し遂げるまでは日本に帰らない。」といったことです。でも具体的に何をするかを決めたわけではなく、とりあえずはベトナムで働こうと考えました。
そして翌日からは「どうすればベトナムで働くことが出来るか」を調べていると、日本に帰って駐在員での赴任か現地採用といって現地法人に直接雇われるかの2つが主な選択肢でした。前者の駐在員というのはベトナム駐在員として募集をしていれば良いですが、そうでなければ日本勤務かもしくはベトナムとは違う国への赴任となるようで、ベトナムへ行ける保障がないことも知りました。そのため、ベトナムで働こうと思っている私にとっては現地採用して働くことしか選択肢がなかったように思います。
ただ現地採用で働くといっても、日本のアルバイト求人のように、すぐに仕事が見つかるわけではありません。日本人向けのフリーペーパーや人による紹介ということもありますが、情報の新しさや確実性が乏しいように感じました。
そこで他にないかと考えていたところ、ある重要なことを思い出しました。先日辞めた会社に現地採用のスタッフがいたことを。そういえば彼らは人材紹介会社を通じて応募があり面接に来ていました。
そこで私も人材紹介会社に登録しようと考え、インターネットで「ベトナム 人材紹介」と検索をしました。思いのほか、多くの人材紹介会社が検索結果に出てきました。どこが良いかと考えていると検索上位に、1ヶ月前くらいの飲み会で知り合ったS君が働く会社と同じ名前を発見。
名刺入れからS君の名刺を探し出し確認。名刺には人材紹介の文字が書かれており、ホームページを開くよりも前に彼に電話を掛けていました。
彼は営業担当ではないと言いながらも、人材紹介会社への登録方法や就職先の紹介までの流れなど詳しく教えてくれました。
そして履歴書や職歴書を送ってから直ぐに人材紹介の担当者から連絡があり、幾つかの希望条件にあう案件を紹介してくれました。その中でも業種は違いますが私の経験が生かせそうな仕事が1つあり、そこを本命にして応募し面接を受けました。結果は1週間もしないうちにわかり、晴れて入社することが決まりました。

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駐在員を僅か3ヶ月で退職

精神的にも肉体的にも疲れ果ててしまった5月のある日、事件が起きました。
畑違いのところからやって来た年下の上司である私と、中国で現地採用となりベトナムへ移ってきた20歳以上も年上の部下(といっても課長)であるTさんと衝突してしまいました。(Tさんは工場内においては工場長に次いで2番目に偉く、生産ラインをほとんど任されています。)
衝突の原因は本当に下らないこと。予定出荷数と実数が合わなくて、軽く尋ねたつもりだったのが、相手にとっては癪にさわってしまったようでした。互いに慣れない環境下での労働にストレスがあったようで爆発してしまいました。直ぐに事なきを得たのですが、私に対する相手の気持ちがわかってしまうと、ほとんどのスタッフが年上の部下なので皆がTさんと同じようなことを思っているのではと思ってしまい気分が重くなりました。
それからは工場へ出勤するのが億劫になり、みんなと一緒に工場へと向かう車には乗らず自腹を払ってでもタクシーで行くようになりました。そして、毎週末楽しみにしていた社長や工場長たちとのゴルフを断るようになってしまいました。
一度、負のサイクルに入ってしまうと大変。仕事への希望はなくなり「いつ、辞めようか」ということしか考えられなくなってしまいました。大学時代からの友人や日本の同僚、誰に相談しても「辞めてどうするの?」と言われてしまいます。みんなから期待され、送り出されたはずなのに、何も結果を残せず散ってしまうなんて。「会社を辞める」これは私自身のプライドが許せないわけではなく、周りの人の期待への裏切りとという罪悪感のほうが強い。でも、もがけばもがくほど底なし沼のように沈んで行くだけの状況。そこから抜け出す術は「会社を辞める」し思いつかなかった私。
「会社を辞める」と決めた私は早かった。給料や退職金が出ないのを覚悟の上で日本へはメールで退職の旨を送り、現地では社長と工場長に忙しい時間を割いてもらい直接辞表を提出。仕事の引き継ぎは無理矢理1日で終わらせ「サービスアパートメントは3日以内には出ます。」と言い、退職願を出した翌日から仕事に行きませんでした。
辞める時は自分勝手にわがままを通してしまいました。「3日以内にはサービスアパートメントを出る。」と言ったので先ずは家を探すことになりました。
会社と家の往復の毎日だったのでホーチミンに3ヶ月以上居ても、どこに何があるかなんて知りませんでした。知っているのは、たまに社長や工場長が連れて行ってくれた日本食レストランくらいでした。当てもなく彷徨っているとバックパッカー街へとたどり着き、しばらくはそこで滞在することを決め、直ぐに荷物を移動しました。
家が決まったところで一番話しやすかった社長に電話を入れると、勝手気ままで急なことだったのにも関わらず、退職願は受理されたようで本当に駐在員を僅か3ヶ月で退職してしまいました。
ちなみに残された日数は有給休暇で対応してくれることになり、少ないものの退職金が出ることも教えてくれました。

会社と家の往復の毎日で疲弊しきった私

楽しかった記憶がありすぎて本来の趣旨から外れてしまっています。まだまだ書けそうな気もしますが、この辺で本来の趣旨に戻す投稿をします。時間が余ればHちゃんと旅行へ行った思い出を、また書きたいと思います。

前置きが長くなりましたが、本来の趣旨に戻りまして、今回の記事タイトルを
「会社と家の往復の毎日で疲弊しきった私」にして、「駐在員を僅か3ヶ月で退職」「転職してベトナム現地採用として働く生き方を選んだワケ」へと続きます。

過去の記事を読んで下さってくれている方は、ここからの数行は飛ばして下さい。私がベトナムへやって来たのは辞令が出たからです。日本では営業企画部主任として働いてましたが、辞令により課長を飛び越え生産管理部部長としてベトナムへの赴任が決まりました。工場の建設が遅れ、操業開始時期が3月にずれ込みました。

ここから私が駐在員を辞めるきっかけが含まれる本題となります。
操業時期が遅れ、始まったのは3月1週目のことでした。
それまでは平日は日本の手伝いか、立ち上げ準備。2月下旬には日本や中国、タイから続々と集まってきて社長と工場長を入れると10名以上の日本人スタッフとなり女性は私のみとなりました。10名以上の日本人スタッフのうち半分は応援メンバーなので任期は半年で日本や中国へ帰ることになるとのことでした。
みんな来たのはバラバラの日程だったので、私のように歓迎会はなく3月1週目の月曜日、操業を開始した夜に日本人スタッフ全員とHちゃんで決起集会のようなものをしました。
操業開始されてからの毎日は、文字通り会社(工場)と家(サービスアパートメント)の往復。朝5時30分に会社から用意されたドライバー付きのワゴン車が迎えに来てくれます。そこから10分と掛からないところに、私と工場長以外が住むサービスアパートメントへと向かい他の日本人スタッフをピックアップ。そこから工場へは1時間20分、渋滞にはまると2時間近くかかってしまうこともありました。
8時始業で休憩が合計1時間30分あるので終業は17時30分。ホーチミンへ帰る車は18時と18時30分に1台ずつ。(但し、18時に出発する車は定員がいっぱいにならないと出ない)
工場からホーチミンへ帰る時は必ず1回は渋滞にはまるので、どんなに早くても私が住むサービスアパートメントへ20時30分までに帰れたことは一度もありませんでした。仕事がある日の起床時間が4時30分だったので、家に帰ってから外出しようという気は起こりませんでした。しかし、日曜日など自由な時間がある時は積極的に日本人コミュニティによる飲み会(○○県人会や○○生まれの会など)へ積極的に参加してました。
このように、日曜日を除けば本当に会社と家との往復の毎日で、精神的にも疲れ果て、日本の友達に電話をしても日本の元部下に電話をしても愚痴ばかりでした。そして会社と家の往復の毎日が始まり2ヶ月が経った頃、『何でベトナムへ来たんだろう?』という自問自答を繰り返す毎日が始まりました。

テト休みの旅行

テト休みまでの約1週間というと、ベトナムへ来た翌日はHちゃんを除いた4人でゴルフへ行くことになり、その翌日は事務所へ出勤するもほとんどやることがなく、会社のベトナム版ホームページを作成するはめになりました。大学時代、バックパッカーをした時の日記をブログではなくホームページで更新していたことが、まさかベトナムで役立つとは思いもよりませんでした。
そして、テト休み初日、Hちゃんと事務所のあるビルの下で待ち合わせをしました。約束の時間になると、目の前に現れたのは会社の車。
そこから降りて来たのはHちゃんと、なんと工場長。
「こんにちは」と言いつつも不思議そうに見つめていると、こちらの気持ちを見透かされたように「大丈夫、大丈夫。心配しなくても空港まで一緒に行くだけだから。」と、工場長。妙に安心した表情になったようで、工場長だけでなくHちゃんからも笑われてしまいまいました。
空港までは工場長からニャチャンの見所をたくさん教えてくれました。
工場長はタイへ行くらしく国内線の私たちとはターミナルが違うので空港内に入るとすぐに別れました。
ホーチミンからニャチャンへの空の旅は1時間30分なのでアッと言う間でした。
ニャチャンという街は、ベトナムきってのリゾート地でベトナム国内だけでなくベトナムに滞在する外国人(日本人も含む)の多くが休日ともなると押し掛けるようです。特にロシア系の人はベトナム旅行の最中にハノイ・ホーチミンとともに訪れることあるようです。そのせいか空港からホテルへ向かう道中、街の中には英語表記だけでなくロシア語の表記も見つけることが出来ます。
部屋に荷物を置いてビーチへと行きます。
正直言って悪いですが、ベトナムのビーチは汚いと思っていました。だって街の中では平気でゴミを捨てるし、川へのポイ捨ても普通なんですから。
でもビーチに行って驚きました。
淡水のように透き通っているとまではいいませんが、海水としては十分に澄んでいます。
リゾート地として開発されているところは、どこの国でも海が綺麗なんだと思いました。(例えば、日本の白浜とか。)
Hちゃんの話しでは、これだけ綺麗なのに「いつもより少し汚い。」「ここより透明度が高いところがある。」といったことを言っていたので、時期や場所でもっと綺麗なところがあるんだと思います。
ニャチャン滞在の4日間は主にビーチへ行きのんびりと過ごし、それ以外はカフェやレストラン、バーへと繰り出すということをしていました。遺跡や遊園地があるようなことを聞きましたが「テト(旧正月)でゆっくりしたいのに人が多いところへわざわざ行くのは嫌だね。」とHちゃんに言われ、仕方なくのんびりするのに付き合いました。
ニャチャン滞在4日目の朝でもありダラット出発への朝でもある。6時半に起床し7時にはチェックアウト。屋台で朝食を済ませ、バス乗り場へと向かいます。
7時40分頃には既にバスがあり、バスの周りには人、人、人。運転手による点呼が始まり、終わるとバスへ乗り込みます。どうやら全員揃ったようで定刻よりも早くに出発。ダラットへ向かう途中、2度ほど休憩をしたようですが爆睡していたので気づきませんでした。
ダラットのバスターミナルへ着くとHちゃんの親戚がバイクで迎えに来てくれていました。ダラットではHちゃんの親戚の家で1泊し、翌日の夜に飛行機でホーチミンへと戻りました。観光地がたくさんあると聞いてましたが、翌日に滝巡りをした以外は親戚の家でのんびりするだけという感じでした。
Hちゃんに連れて行ってもらった旅行は、ずっとのんびりと過ごすというもので観光地を巡ったわけではありません。もっと情報が載せれればアクセスが上がるんだろうなって思いながら、この記事を終わります。

ホーチミン1日目の話し(3) 衝撃の事実

店内に入り、店員によって案内された場所は2階にある6人用のテーブル。用意されているカトラリーは僅かに5セット。周りのテーブルを見渡しても日本人らしい人が居ない。おまけにベトナム人も。どちらかというと西洋人の方が多く明らかに私たちとは関係なさそう。
ホテルで専務を待っている段階から気にはなっていました。だって社長も工場長も専務のことは気にしても、それ以外は気にしてなかったから。
恐る恐る「あれ、5人だけですか?」と尋ねると、「もしかして、幽霊とか見える人?」とおどける工場長を尻目に、「専務、彼女に伝えてないのですか?」と社長。
何も言わない専務に堪え兼ねて、頭の中を『?』マークで埋め尽くされた私が「何ですか?」と言葉を発します。
すると「日本の社長には伝えてとお願いしたんですけどね。」「年末、日本に帰れなくて彼女には会うことがなかったし。」と言い訳する専務。しかし、なかなか核心を言いません。
もう一度、「何ですか?」と尋ねると、「ごめんね。」と前置きしてから、『工場の建設が約2ヶ月遅れたこと。』『操業が3月開始になったこと。』『日本人スタッフの多くは2月末に来ること。』などなど初めて聞かされることばかりで驚きました。
でも一番驚いたのは「来週からテト休みになるので10日間は何もしないで良い」と言われた事です。
出だしに驚くことを言われてしまい、色々と話したとは思いますがあまり記憶に残っていません。唯一記憶に残っているのが料理が美味しかったことです。

ちなみに、テトというのは日本で言う正月のことです。ベトナムでは、正月のことをテトといいます。中国の旧正月とは時期が違い、また年によって始まる日が違い、元旦の5日前後を含む合計1週間〜10日間がテト休みとなります。(元旦は、2013年2月9日、2014年1月30日、2015年2月19日)
テト休みの間、ベトナムの方は完全に休んでしまうので会社を開けても誰も来ないそうです。

急に言われた10日間の休日。「日本に帰って仕事しろ。」とでも言われるかと思い、翌日、その翌日と仕事をしましたが、社長や工場長からは「ベトナム国内旅行へ行って来たら?」という言葉。ワーキングパーミットが取れるまでは日本だけでなくベトナム国外へ出られないシングルビザとはいえ、日本の皆さんには悪すぎるので本社社長へメールを入れました。すると答えは「遊び目的じゃなくて、勉強目的で楽しんで来て下さい。」ということでした。
ベトナムには誰も知り合いが居ない私にとって、テト休みはどうなるかと心配になりましたが、Hちゃんから旅行を誘ってもらい前半はダラットとニャチャンへ旅してきました。

ホーチミン1日目の話し(2) 歓迎会へ

サービスアパートメントからシェラトンホテルへ向かう車内はとっても楽しく。渋滞にはまって身動きが取れなくなると、社長は「今まで流れるようにしか見れなかった景色も、今ではゆっくりと見れるようになりましたね。」「今のうちにゆっくり観光して下さい。」と言いながら、車内から見える建物についての説明やホーチミンの歴史の話しをしてくれました。シェラトンホテルに着くと、Hちゃんが「渋滞がなければ10分か15分とかからないです。」と言い、全員揃って下車。ロビーへと向かいます。
「待ち合わせ時間ちょうどですね。間に合いました。」と腕時計を見ながら工場長。「専務に電話しましょうか?」とHちゃん。「もう少し待ちましょう。」と社長。
4人揃ってシェラトンホテルのロビーに置かれた椅子に腰掛け待っていると、10分程して専務がやって来ました。「こんばんは」「お久しぶりです。」などというお決まりの挨拶を交わし、Hちゃんの「7時半で予約を入れているので、少し遅れてますので急いで行きましょう。」という言葉が合図となって、専務が「お腹空いているでしょ?」「待たせてごめんなさいね。」と申し訳なさそうな顔でホテルのロビーから外へ向かおうとしたので皆が彼を追います。
専務が「場所どこですか?」と言うと、Hちゃんが「私に付いて来て下さい。」「歩いて直ぐです。」と先頭へ。途端に、専務が横になる陣形になってしまいました。専務に話しかけられても何を話して良いかわからないと、とっさに判断してHちゃんの横にぴったりとつき話しかけます。
「歩いて直ぐ」の言葉の通り、ホテルからは3分と掛からないところに予約していたレストランがありました。看板にはタイ語でも書かれており、タイレストランだと気づき「なんでベトナムへ来た一食目がタイ料理なの?」という言葉が出そうになりましたが我慢。しかし専務からは「明日からタイなのにタイレストランって」と当然のように愚痴がこぼれ、「他、行こうよ。」「ここじゃないとダメなの?」とこれまた当然のような展開。
「予約してしまっているので、すいません。」と社長が言うと、「ここ美味しいですから。」とHちゃん。そこに社長と工場長も「美味しくて、よく来るんですよ。」と応戦します。
「じゃあ、それだけ言うなら入ろうか?」と専務を発し、張りつめた緊張の糸が解れます。Hちゃんを先頭に続々と入店し予約した席へと案内され、衝撃的な事実が発覚しますが次回へと続きます。

ちなみに、利用したタイレストランは隠れ家的な場所にあって値段が高いとは思いますが味はピカイチ。今でも月に1回通うほどにはまっています。

ホーチミン1日目の話し(1)

思いもよらない歓迎で迎えられたベトナム ホーチミン初日の続きです。
日本からベトナム ホーチミンへやって来たのは直行便でしたので、ベトナム ホーチミンへ着いたのは昼2時半だったか昼3時だったと思います。そして空港から移動しサービスアパートメントへ着いたのは昼3時半。サービスアパートメント内の施設や近隣の施設、市内への行き方などを例の彼女が教えてくれました。
彼女の名前を言って私の素性が知れるのが怖いので、よくある名前ですがイニシャルがHなのでHちゃんと書くようにします。
Hちゃんによる色々な説明が終わったのは5時過ぎ。
Hちゃんは「私は事務所に戻り、7時から歓迎会をしますので6時半に迎えにきます。」「サービスアパートメントに着いたら電話しますね。」と部屋を出て行ってしまいました。
残された私は、トランクに収めた衣類から水着とバスタオルを取り出し、サービスアパートメント内にあるプールへと向かい、30分ほど泳ぎました。
部屋に戻りシャワーを浴び、ドライヤーで髪を乾かしていると部屋のチャイムが鳴りました。
Hちゃんは電話をくれると言っていたので「誰かな?」と恐る恐るドアスコープから外を覗くと工場長の姿が見えました。扉を開けながら「誰かと思い、ビクビクしちゃいましたよ。」と言うと、「ごめんね、ごめんね」「Hちゃんが電話をすると言っていたみたいだけど、誰も電話番号を知らなくて同じフロアに住む僕が迎えに来たんだよ。」「もう皆、1階に居るみたいだから、準備が出来たら降りて来て、じゃあ。」と言い残して行ってしまいました。
まだ6時半になっていなかったのですが、待たせるのは悪いと思い、ほとんどメイクをせずに1階へと向かいました。
「お待たせしました。」と1階に行くと、社長と工場長、Hちゃんの3人が居ました。「そんな急がなくても良かったのに…。」と社長と工場長に言われ、Hちゃんから「これからシェラトンホテルに行きます。」と私たちの先頭を歩き車へと案内をしてくれました。
車の中で「シェラトンとか高いんじゃないですか?」と尋ねると、「会社持ちだから大丈夫。パアッと使おう。」と陽気な声を出す社長、しかし工場長が「専務を迎えに行くだけですがね。」と一言添えます。「専務ですか?」という質問を読まれていたようで「昨日までが台湾で、明後日がタイ。1日空いたから寄るという連絡が今朝ありました。」と即答する工場長。
専務は、主に海外事業を担当していることもあって、日本でもあまり見かけた記憶がなく、会話をしたのは一昨年の忘年会以来だと思います。

期待と不安いっぱいで訪れたベトナム ホーチミン

日本の仕事(プロジェクト)が終わったのは1月下旬。相手クライアントと担当者の意思疎通が上手くいっておらず、出来上がったものが依頼とは少し違うかったようで最終調整に時間が掛かり、予定時期であった12月上旬から大幅に遅れてしまいました。当初は、私の部署とは関係ない事案だったので、ゆっくりと出来ると思っていたのに、最後は応援ということで私の部署まで駆り出される始末。結局、相手クライアントが納得いくものが出来上がったのが2月にあと3日となった1月29日でした。
私がベトナムへ行く日はプロジェクトが遅れても変わることはありませんでした。飛行機のチケット、滞在先、ビザ関係など、私が直接関わらなくても良いことは完璧に会社がしてくれていました。
ただ私の心の準備は完璧ではなく、バタバタとした感じのままに飛行機へと搭乗しました。
飛行機は僅か数時間で関西国際空港からベトナム タンソンニャット国際空港へと到着しました。
大学時代、バックパッカーとしてベトナムへ訪れたことが3度あります。2度はハノイ発着で1度はカンボジアからの陸路。なのでタンソンニャット国際空港は初めて。それもあって空港の中であっても目に飛び込んでくる風景は新鮮で飛行機の中で心配でしていたことは吹き飛んでしまい、どちらかというとワクワク感でたまりませんでした。
工場やホーチミン事務所の住所を聞いていたので、ボッタクリが多いと聞いていたタクシーに乗りたかったのですが、会社から「いきなり駐在員に危険な目に遭わせたくない。」と言われ、ベトナム法人の誰かが迎えに来てくれることになっていました。
しかも嬉しいやら、恥ずかしいやら…。
空港の到着ゲートから出ると「!?!?!??!?!!?」。
信じられない光景が目に飛び込んできました。私には「やって来ました。ベトナム ホーチミン」という感慨に耽ることが許されないようです。
そこには、周りに花があしらわれ「歓迎○○ちゃん」(○○の中には私の下の名前が入ります。)と書かれたA0サイズくらいの紙をラウンドガールのごとく頭上で掲げる真っ黒に日焼けした中年男性の姿がありました。
パッと見は見たことがあるような気がしたのですが、私の知る方は色白で堅物のような印象しかありません。と、言っても見たのは一度だけ。そう、私がベトナムへ行くことを会社へ伝えた会議室です。
正面に居たベトナム法人の社長の横には、よく見ると工場長と見たことのない女の子が手を振ってくれています。
期待や不安、ワクワクまでも吹き飛んでしまい、自分でも顔が赤くなっているのがわかるくらい。「ありがとうございます。」「お久しぶりです。」「これから宜しくおねがいします。」などといった形式的な挨拶を交わしながら、用意されていた車へ乗り込み工場や事務所ではなく滞在先となるサービスアパートメントへと案内されました。
サービスアパートメントの前で社長と工場長と別れ、見たことのない女の子が部屋だけでなく生活に必要なことの多くを教えてくれました。その彼女は社長秘書兼通訳兼事務員ということで日本語だけでなく英語も話すことが出来ます。

私がベトナム駐在員となったワケ

実は私、ベトナムへやって来たのは駐在員としてでした。
本当に駐在員時代は苦労の連続でした。
日本で就職したのは、あるジャンルの製造業でした。海外にも幾つか拠点があり、現地で安く製造しては日本や諸外国で販売するというスタンスの会社です。
そこの会社は大学時代から憧れており、本命にしていた会社なので決まった時は周りに知らせまくったのは今では良い思い出です。
デザイナー志望だったのですが、入社して配属されたのは営業企画部でした。直接的にデザインに携わるわけではなかったものの、間接的にはデザインに携われるだけでなく新たに提案をすることだって出来たのでデザイン専門の仕事よりも私には向いているように感じ、日々やりがいを持って仕事をしていました。
就職してから3年で主任となり、次期課長候補と持て囃されていた5年目の夏に辞令が出ました。しかも課長ではなく部長への昇進でした。ただ、これには手放しで喜べない事実が隠されていました。
それは今迄の中国の工場だけではなく、新しくベトナムへ進出する工場で生産管理部の部長ということでした。
新規進出なので立ち上げメンバーということになりますが、現地法人の社長や工場長は中国進出の際に立ち上げたメンバーということで、あまり不安がないように感じました。
ベトナムだけでなく東南アジアへは、大学時代にバックパッカーとして何度か訪れたことがあり、もの凄くマンパワーを感じれる面白そうな国だと思っていました。
だから不安な要素はなく、面白そうな国だということで二つ返事でベトナム赴任を決めたわけではありません。
これらのことが後押しとはなりましたが、なんせ好きなデザインとはかけ離れた仕事になるのですから。
辞令が出てから2週間、考える時間を与えてくれました。
その間は上司から不安要素の払拭に努めたような説得、同僚から「出世コースに乗ってるね。」という嬉しい妬み、友人から「アンタ、東南アジアで働きたいと言ってたじゃん。」という言葉などを掛けられました。
期日の2週間が経ち、会議室へと行くと直属の上司だけでなく、ベトナム工場の工場長とベトナム現地法人の社長に加え、人事部長、専務、社長といった錚々たるメンバーが居ました。
『これ、断ったらどうなるんだろう?』という好奇心に負けそうになりましたが、予定通り「ベトナムへ行かせて下さい。」と伝えました。社長からは「デザインが好きと聞いているよ。デザイン系の部署がないけど、企画や提案によってはいつでも動けるようにしているから提案して下さいね。」と言われました。
ベトナム法人の立ち上げと工場の開所式は11月上旬でしたが、担当しているプロジェクトが12月上旬までの予定だったので、ベトナムへ行くのは余裕を見て2月2日となりました。